旧篠ノ井線は、明治35年に全線開通。
長野県の南北を結び多くの人や物資を運搬してきた。
昭和45年に蒸気機関車が姿を消して電化され、
昭和63年に新線が開通したことで86年間の役目を終えた。
煉瓦積みの漆久保トンネルや、当時の信号機など面影が残る。
2019年8月 撮影
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三五山(さごやま)トンネル
明治三十年代に、建設された全長125mある煉瓦造のトンネルである。
天井のモルタル部分は、旧篠ノ井線が電化される直前(昭和四十六年頃)
水滴が電線に付着するのを防ぐため吹き付けによる補修工事を施した。
そのため、当時のレンガ部分を確認できるのは側面下方だけとなっている。
この先から旧第二白坂トンネルまで最急勾配二十五パーミル(1キロ進んで二十五メートル上がる)の急坂が続くが、
雨天時に蒸気機関車が滑って上がれないため勢いをつけて上がり直す光景も珍しくなかったという。
けやきの森自然園
現在の廃線敷沿いに分布する鉄道防備林は、斜面災害(土砂崩壊、落石など)防止のため
1921年(大正十年)に全国に先がけて鉄道防備林が指定された。
当初はニセアカシアが植林されたが、1945年(昭和二十年)代にけやきへ樹種転換され今日に至っている。
防備林の整備とともに、地滑り対策として斜面の表面水を排出する水路や、地下水位を下げるための井戸などが点在する。
また鉄道防備林であったことを示す立札も残っている。
自然災害に苦労した旧篠ノ井線
篠ノ井線西条~明科間の工事は、明治二十九年十月着工以来、潮沢川南側山地の裾を削り、トンネルを掘り、
幾筋かの深い谷を埋めるなど難工事を克服して明治三十五年六月十五日に開業した。
しかしこの地域は長野県下でも有数な地滑り地帯であったため、開通後もしばしば災害に見舞われていた。
そのため、汽車が不通になったりすることもしばしばあり、復旧工事にあたって徐行を強いられるなどの難題の多い線路であった。
大正十三年、この付近で発生した地滑りは、鉄道線路が埋没し土砂に汽車が乗り上げ脱線転覆し、
復旧にも相当の日時を費やしたと伝えられている。(写真)
漆久保(うるしくぼ)トンネル
明治三十年に開通した全長五十三mの総煉瓦のトンネルであり、百年前の鉄道トンネルの典型として文化財的価値が高い。
開通当初より補修工事が施されておらず、保存状態も良いため当時の面影をそのまま残している。
また、トンネル内に付いている黒い煤は、当時の蒸気機関車が走っていたことを伝えており、レンガ色とのコントラストが鮮やかである。
レンガは、現在の明科高校附近で焼かれ、そこから鉄道敷にトロッコ線を設けて運搬されており
このトンネルが開通するまでの労力が思い起こされる。
漆久保トンネルの上を通る細い道は大昔、善光寺へ通じる道であった。
木曽御嶽山の表参道を開いた普寛と、裏参道を開いた覚明、2人の像を立て祀ることで、この道を通る旅人の安全を願ったと言われている。