1 ブースカフェカクテル

七色のカクテル

海水の話

ブース・カフェ・カクテルというのをご存知だろうか

ブース・カフェ・カクテルとは、色の違う酒が何層も重なったカクテルの総称

透明なカクテルグラスのなかで、
赤、緑、紫、青、茶などの色が幾重にも重なっていて美しく
七色の色を束ねた「レインボー」というカクテルなどは
カクテルの美しさをこれでもかと表現した絵画的嗜好のカクテル

使うリキュールのことをよく知り、注ぐ順番を間違えないようにしないと
たちまち層が崩れてしまうので、バーテンダー泣かせの一品でもあるという

もともと
ブース・カフェとは、フランス料理のコースの最後に食後の珈琲と共に出されるリキュール
のことを指している

つまり、その特徴は「甘い」ということ

糖度が高くて重く、トロッとした酒を最下層にして
それより少し軽い酒をそっとその上に重ね
その上にはさらに軽い酒を重ねる、というようにして作る

要するに、ポイントは酒の密度である

酒の密度を決めるのは、酒の度数や糖度

密度の高い酒ほど重いので重力で下に沈み、密度の低いものほど軽いので浮く
それで密度の高い酒から低い酒へと、順番に静かにグラスに注ぐことで
それぞれの酒が混ざらずに美しい層のカクテルができあがる

重い液体の上に軽い液体が乗っているので、物理的に安定していて
故意にかき混ぜて崩さない限り、層を保ち続ける

このように
安定した層ができている状態を「成層」という

水塊の存在

こんな話をしたのは、じつは
この性質はすべての液体がもつ共通の性質だからである

身の回りの水でも、そして深海でも条件によっては似たようなことが起きる

深海を知るうえで、海水の性質を知ることは重要である
なぜかというと
海水は世界中の海で、水温、塩分濃度、密度が均一ではなく
さまざまな値をとり、それによって海の性質が決まる

ブース・カフエ・カクテルのように目に見えて色が違うことはなくても
水温や水質といった性質の同じ水のかたまり(これを水塊という)が隣り合っていて
それが浮いたり沈んだり止まったり移動したりすることで
全体として海という複雑なシステムを作っている

水塊が動くことは、それによってそこに住むプランクトンや魚類などが移勤し
分布が決まり、隆盛や衰退にも影響を与え
それを食料とするわれわれも間接的に影響を受けていることになる

ブース・カフエ・カクテルのような成層化は、これらの現象のひとつである

海の中で実際にどのような水塊ができているかという話の前に
単純でわかりやすい例をひとつあげると

たとえば家庭の風呂でも、こういうことがある
前日のぬるくなった残り湯に、熱い湯を注ぎ足して、かき混ぜないでいると
熱い上層と冷たい下層に分かれてしまう

これは、水は4度でもっとも密度が高く(重く)
それより温度が高くても低くても密度が小さい (軽い)ためである

風呂の場合、冷たくて重い水塊の上に、軽くて暖かい水塊の層ができている
つまり、水というひとつの物質であっても、
温度の違いが密度の違いを生み
水塊の層ができるのである

熱帯のブース・カフエ・カクテル

これが海という大舞台になるとどうなるだろうか

まず、熱帯の海を見てみよう。熱帯(低緯度)では太陽の熱で海の上層が暖められる
実際に温度を測ってみると、海上面から水深300メートルまでの表層は
風や波、潮汐などの影響で海水がかき回されているため
表面温度と同じ、20℃以上の暖かくて軽い層が
水深300メートルぐらいまで続く

これを「混合層」と呼ぶ

水深300メートルから1000メートルまでは
一定の割合で温度がどんどん下がっていく

温度と水深の関係をグラフにしてみると、斜めの直線の坂になる

この層を水温積層とか温度積層と呼ぶ

そして
水深1000メートルよりも深い深海では
水温は2~3度と一定で冷たいまま、変わらなくなる

これはなにを意味するのだろうか

水温積層は温度が急激に変化する層なので
この層が存在することで
冷たくて密度が高い深海
暖かくて密度の低い上層とが分離されている状態になる

各密度の差が連続して成層化し、上下の水が混ざらなくなる

海水の場合は真水と違って
マイナス9℃で凍りつくまで温度が低いほど密度が高い


海水の密度を決めるファクターは、水温、塩分、などがあるが
これらのうちの、とくに温度の影響が一番大きい

次が塩分濃度の影響
温度が連続的に急変化しているということは
密度も連続的に急変化していると考えていい

ブース・カフエ・カクテルと同じである

密度の高い(重い)水の上に
連続的に密度の低い(軽い)水が積み重なっているので
とても安定している

熱帯の水深300メートル以深の深海では
連続的に密度が変化することによって成層化し
ブース・カフエ・カクテルの状態ができている

熱帯の島で潮風に吹かれながら
七色のカクテルを傾ける人々の目の前に広がる海のずっと下の深海でも
密度のグラデーションが
天然のブース・カフエ・カクテルを作り出している

高緯度はステアされている

北極や南極に近い高緯度の海では
海水はどのような構造になっているのだろうか

高緯度の海や陸には氷があって冷えている
このため、海水が冷やされるから、あらゆる水深で温度が低く
同じ温度の海水が表層から深海までを貫いている

高緯度では温度積層は存在しない

その代わり、このような状態では
塩分が濃ければ重く、薄ければ海水は軽いから
鉛直方向に水が動く
「湧き上がり」や「沈み込み」が頻繁に起きる

これを鉛直混合という

あえてカクテルにたとえれば
常にステアしている(かき混ぜる)
のと同じような状態である

中緯度の海ではどうだろうか

中緯度では表層だけが暖かいような
春や秋の時期にだけ成層化か起きる

春や秋には、昼は暖かいが夜は寒いため
太陽の熱が表層だけを暖めるが
水底は冷たいまま
ということが起きる

同じような現象が、プールや池、湖などでも起きている
春や秋にプールや湖に飛び込んだら
思った以上に水が冷たいのに驚くことになる

密度の違いが
液体の「成層」や「鉛直混合」
という現象を引き起こす

これらは垂直方向の移動である

海水は常に移動し
沈み込んだり湧き上がったり
深海でゆっくり流れたりしている

風や潮汐の影響を受ける最上層を除けば
海水の垂直方向の動きは
海水の密度変化に端を発して流動しているのである

《深海の科学》 瀧澤美奈子 2008年5月初版 ペレ出版 より引用