4 深海に響く音

静寂か喧騒か

深海に音は存在するのだろうか。

存在するとしたら、それはどんな音だろうか。

プールで潜水をしたときのことを思い出してみよう。
水中ではプールサイドの人の歓声はまったく問こえず、
聞こえるのは自分の吐き出す息のボコボコという音と、
配水管から響いてくる独特な金属音ぐらいである。

あまりの静けさに、自分だけ違う世界で特別な時を過ごしたような、
そんな不思議な感覚さえ生じる。

だからその延長で、海の中というのは、音のない静寂な世界だと思っていた。

深海では、
地上に溢れているようなサイレンの音や車のクラクション、
ガヤガヤとした人の話し声、本々の枝がそよぐ音、よせては返す波の音、
美しい鳥のさえずりといった音は聞こえない。

しかし、かといってまったく音がないわけではない。

ある深さの深海には海の音が集まってくる場所、
正確には水深が層状に存在することがわかっている。

それは、古びた木製の重いドアが軋むような音、
あるいは遠くで道路工事をしているときのドドドド……という地響きのような音、
あるいは嵐のときに電線が強い風にあおられて低いうなり声をあげているようなあの不気味な音、
時代劇の殺陣シーンで刀を振り下ろす場面につけられる効果音のようなギユユユンーというのに似た音など、
あまり爽快とはいえない音の一群だ。

アメリカ海洋大気局(NOAA)の海洋探査のホームページには、
実際に海の中にマイクを入れて録音した海中の音を聞くことができるページがあるので、
一度聴いてみることをおすすめする

アメリカ海洋大気局(NOAA)の海洋探査のホームページ

実際にその音を聞いてもらうと想像しやすいが、
海の中では、まるで映画のなかに登場する海の深淵に集まる冷酷な悪霊のように(科学的には実在するとは思えないが)、
ある水深にだけ不気味な音が集まって、遠くまで響き渡る。

これがなぜ起きるのかについては後回しにするとして、次のように順を追って説明していこう。

・ なぜ深海の音は低音域なのか
・ 音の発生源はなにか
・ 深海の音が、ある水深の層に集よって、遠くまで伝わる現象とは
・ 深海の音の利用と課題

くぐもった低い音

まず、なぜ深海の音は低音域の音ばかりなのかということについて考えてみると、
これには簡単な理由がある。

振動を伝える水が、高音域の速い振動を吸収するため、高音が存在てきないからだ。

膨大な水そのものが、本来の音を変化させてしまうのだ。

したがって、たとえ音の発生源で、高音を含んだ明るい音であったとしても、
水の中を進むうちに高音域がはぎとられ、
くぐもって、ところどころがかすれがちになって野太くなり、艶のない音になる。

真っ暗な深海で奈落の底から湧き上がってくるがごとく、
どこからともなく低いうなり声のような音の一段が響いてくる。
これが深海に響く音なのだ。

地球を包むラブ・ソング

では一体、深海に響く不気味な音の出所はどこなのだろうか。

研究によると、人大きく分けて
自然現象の音、生物が出す音、人口の音の3種類に分類することができる。

まず、自然現象がもとになって発生する音のうち、もっとも強力なのは、
海底の地震で発生した音である。

断層のずれがもとになって起きた地震の音は、地球上の海底を6万キロメートルも伝わることがわかっている。
また、海底火山で起きている噴火の音も、
海底地震ほどのエネルギーではないにしろ、大きな音を発生させる。

そのほか、海底の地すべりでも音が発生する。

それから、頻繁に起きるというわけではないが、
南極やグリーンランドなどの氷床が崩壊して海になだれ落ちる音も深海に響きわたるという。

また、もし海に隕石が落下すれば、その音を感知することもできるだろう。

このように、深海の音をモニタリングすることで地球全体の変化が見えてくる可能性がある。

次に、海に住む生物たちが出す音も、見逃すことができない。

驚くことに、
クジラ、イルカ、魚などの海洋生物の鳴き声が深海に響いているのだ。

研究者にとっては、深海に響く彼らの声に耳を澄ませることで、
どの種がどれだけ生態系のなかで優勢なのか、増えているのか、減っているのか、
あるいは動物同士の関わりやふるまいを研究するのに役立つ。

とくにクジラはコミュニケーションの手段として、声を出して仲間とやりとりをしたり、餌の群れを探したりするのに音を利用していると考えられている。

たとえばザトウクジラのオスは、クジラのなかでも一番の歌の名手として知られている。

彼らが歌うのは、

高音から低音までをフルに使った、特別に構成が複雑な長い歌で、
いくつかのテーマがアレンジされながら繰り返され、
1曲の長さは数十分にもなるという。

あるオスは、なんと14時間も歌い続けたという観測記録がある。

その目的は明白ではないが、
おそらくは繁殖期のメスヘの情熱的なラブ・ソングだと思われる。

シーズンを経るごとに、オスの歌にはどんどん磨きがかかって、しだいに変化していく。

しかし、クジラはただ歌うだけではない。

じつは、クジラの声のうち、

数十ヘルツから数百ヘルツの周波数帯は、遠距離通信が可能な低周波の音である。

そして、実際にクジラたちは、海の特殊な構造を利用して、
その歌声を数百~数千キロメートル離れた遠くの仲間のところまで届ける方法を知っているのだ。

彼らの方法を使えば、
たとえば太平洋の北の端にいるクジラとハワイ沖にいるクジラがコミュニケーションをすることだって可能だ。
地球全体をまるで〝自分の庭〟のように使って話し合いをしているようなものだ。
彼らの歌声が実は深海の中をめぐって、地球を包み込んでいることに気づかないのは、陸にいるわれわれのような動物だけなのだ。

人間は、
無線通信やインターネットを使って遠距離通信を行い、その維持には莫大な費用をかけているが、
彼らはなんの道具も使わずに、美声をふるわせるだけで遠距離通信を行っている。
ほんの少しのコツを心得ているだけで。

そのコツとは、

深海そのものにできている特別な〝音の道〟

を使うことである。

陸にはこのような道は存在しない。深海に特有の素晴らしい秘密があるのだ。

海中に存在する音の道

深海には、音を遠くに伝える自然のしくみがある。

それがこれから説明する〝音の道〟である。

音の道は
世界中のほとんどの深海、
水深約1000メートル近傍に層状に広がる領域である。

この領域に音が入ると、音は層の中に閉じ込められて、効果的に遠くまで運ばれる。

この層のことを音速極小層、英語ではSOFARチャネル(Sound Fixing And Ranging の頭文字。〝so far = とても遠い〟と語呂合わせをしている)、あるいはPermanent Layerなどと呼ぶ。

深海では、
水深数千メートルで発生した音はした方向に曲げられてこの層の中に入り、はるか数千キロメートルに及ぶ音の旅が始まる。

冒頭で、「ある水深にだけ不気味な音が集よってくる」と書いたが、
じつはこのある水深というのは、SOFARチャネルのことなのである。

なぜこのようなことが起きるのだろうか。
そのしくみは次のようなものである。

この自然現象は、音の伝わる速さが、
水温と水圧によって変化するために生じる。

水中に限らず大気中でも同じことだが、

「音」というのは、
「進む速さが最小になるような場所を選んで進む」

波動に共通した性質がある。


そして、

水中で音の速さが小さくなる条件は、
1.水温が下がる
2.水圧が下がる

という2つである。

これらのうち、どちらか1つでもあてはまれば、音はそちらの方向に曲げられる。

海では、伝わる音の速さが、
温度の影響を受ける上層と、水圧の影響を受ける下層の、
2つの層に分けて考えることができる。

おおざっぱにいって、
海は水深数百メートルから約1000メートルぐらいまでは、温度が急激にどんどんド下る。
そして、約1000メートルを境にして、それ以上深くなっても水温は下がらず、一定の水温に落ち着く。

だから、温度が下がっていく層の下端の深さまでは、深くなるにつれて音の速さも小さくなるから、その水深までは音は下方向に曲げられる。

水温が下がるほど音の速さが落ちるためだ。

しかし、それ以上深くなる下層に行くと、
今度は水温が一定のままだから、水深が増すと音の速さが大きくなることを意味する。

なぜかというと、水圧が高くなるほど音の速さが大きくなるためだ。

つまり、音がそれ以上深く進もうとしても、今度は水圧が増して音の速さが増すため、
それを避けるように、音は上方向に屈折させられる。

このような理由で、

音は音速極小層(SOFARチャネル)に閉じ込められるかのごとく、
上・下・上・下と曲げられて、音速極小層の中を伝わっていき、
数千キロメートルの距離を、
あまりエネルギーの損失がないまま旅をすることができる。

とくに低周波の音は、先に述べたように減衰しにくく、遠くまで通りやすいので効果絶大である。

これが音速極小層、SOFARチャネルの正体だ。

ただ、実際には、SOFARチャネルの水深は、塩分、温度、それから海底の深さに依存するので、海域によって若干水深が異なる。

低緯度と中緯度では、
だいたい水深600~1200メートルの深さにSOFARチャネルがあることがわかっている。
亜熱帯の海域はもっとも深く、逆に高緯度では表層に近い。

Sperm whale (Physeter macrocephalus) male. This toothed whale is found in oceans worldwide. The male reaches an average of 16 metres in length, and can weigh over 45 tons. A sperm whale can live for over 70 years. It is a social animal, living in groups of around a dozen individuals. It feeds on squid, octopus and fish, diving for over an hour to depths of 300 to 800 metres, sometimes as deep as 1-2 kilometres. Photographed off Mauritius, in the Indian Ocean.

深海に聴診器をあてる

大昔からクジラが遠距離通信に使ってきたこの〝音の道〟SOFARチャネルを、われわれ人類が意識するようになってから、まだそれほど時間がたっていない。

というのも、そもそも深海の音に関する研究は、第2次世界大戦後の東西冷戦時代に、軍事的な用途で進んだという歴史があるからだ。

アメリカでは、旧ソ連の潜水艦の位置をすばやく察知するために、
世界中の深海のSOFARチャネル内に水中の音を拾う耐圧製の特殊なマイクロフオン・ネットワーク(SOSUS stations)を構築し、
そこで得られた情報は軍事機密とされていた。

冷戦が終結した後、そのうちの一部が科学研究用に研究者に公開されたのだ。
研究者たちはSOFARチャネルの性質を利用し、海の中のさまざまな音を聞くことで、地球で起きているさまざまなことを知る手がかりを得ている。
地震や海底火山のマグマの活動状況、大型生物の生態などである。

なかでも変わったところでは、地球温暖化についての観測プロジェクトである。

アメリカのサンディエゴにあるスクリプス海洋研究所のムンク教授か提唱し、世界7か国11研究機関が参加するATOC計画(Acoustic Thermometry of Ocean Climate program)は、太平洋全体の平均水温の変動を捉えようとするものだ。

地球が温暖化すると、海の水温も上昇すると考えられる。
海が蓄えることのできる熱の量は莫大で、大気の約1000倍の熱を貯えていると見積もられている。
だから、もし海水温がO・1℃上昇したとしたら、大気では100℃も気温が上昇することに相当する。
つまり、海水温がほんのわずかだけ上昇したとしても、地球にとっては大きな変化なので、海水温の精密な計測は急務である。

とはいえ、広大な海の水温を測ることは容易ではない。

世界中の海で、水温を計測するため、3000本近くの漂流ブイを投入して、人工衛星を組み合わせた観測も行われているが、

別の方法として考察されたのが、SOFARチャネルを用いる方法である。

ちょうど内科のお医者さんが、聴診器をあてながら患者のお腹を軽くポンポンとたたき、その音を聴いて、お腹の中の様子を探るのに似ているが、そのしくみは次のようなものだ。
水温が上がると音の速さが速くなる。そこで、SOFARチャネル内で人工的に音を発信し、それを数千キロメートル離れた複数の地点で受信して音の到達時間を測る。
これを数年間にわたって何度も行い、到達時間が早まっていくようなら、水温が上昇していることがわかるという原理である。

具体的な計画では、
ハワイのカウワイ島沖とカリフォルニア沖の2か所、
水深約1000メートルの海底に音源を設置し、周波数75ヘルツの音を発信することになっている。
これをアリューシャン列島、グアム沖、ニュージーランド沖等の十放か所で受信し、
さまざまな経路を通ってくる音の到達時間を、
1日6回、4時間ごとに10年間測定するというものだ。

ところが、当初、このプロジェクトは1994年に実験が開始される予定であったが、計画通りには進んでいない。
現在は、カリフォルニア沖の音源だけが設置され、試験的に月に数日のみ音波を出している状況である。

じつはこの計画には悩ましい問題がある、

発信する音が海洋生物に悪影響を与えるのではないかと懸念されているのだ。

深海の騒音問題

75ヘルツというと、
人の耳にも音として聞きとれる低音域で、
ピアノでいえば鍵盤のなかで一番低音の 〝レ〟に近い音である、
弦楽器でもコントラバスでしか演奏できないような低音域だ。

だが、このような低周波の音は、
海洋生物、とくにイルカやクジラにとっては、
彼らが遠距離通信に使う周波数と重なるため、
彼らのコミュニケーションの障害となったり、ストレスになったりして、クジラやイルカの座礁事故の一因になっているのではないかという説が、
アメリカの生物学者、音響学者から上がった。

彼らの生態が完全に解明されているわけではないので、確実なことはわからないが、
不用意に海中に大きな音を出すと、彼らにどういう影響を与えるかわからないということで、ATOC計画はストップしているのだ。

もちろん、原因はATOCだけではない。
船のスタリュー音や排水音、魚群探知機、潜水艦の探査装置からの音など、人為起源の音が近年ますます増えていて、このような騒音問題にまで発展しているのだ。

どうやら、静寂と思っていた深海は、
人間による海の利用が進むにしたがって、むしろ騒々しい場所に変わりつつあるようだ。

《深海の科学》 瀧澤美奈子 2008年5月初版 ペレ出版 より引用