5 深層大循環

地図に載らない海流

自分自身では決して自覚することができないが、
人生の始まりと終わりには、まったく同じ音が決め手になる。
心音である。

心臓が自発的に鼓動を打ち、
体のすみずみの細胞に血液をめぐらせて、
必要な栄養や酸素を送ることができるからこそ、
私たちは生きることができる。

海には心音こそないが、
海全体にわたる循環のしくみがあって、
それが地球上の生命を支えている。

それが「深層大循環」という循環である

私は、初めて深層大循環のことを知ったとき、思わずため息が出た。
地球の素晴らしさを思い、いとおしささえ感じた。
それは次のようなことだ。

海の表面には海流が流れている。
地図にも載っているおなじみの海流で、日本列島の近くでも親潮や黒潮などがある。
風や潮汐の影響によって生じる流れだ。

その海流のうち、
とくに高緯度に向けて流れている海流が北極や南極に近づくと、
冷やされて海水の密度が高くなり
(水温の低下と塩分濃度の増加という2つの効果で密度が高くなる)、
水深数千メートルの深海に沈み込む。

そして、その水が全世界の深海に静かに広がっていく。

これが地図には載っていない、秘められた海流、深層流の始まりだ。

深海への海水の沈み込みは、北大西洋と南極海という限られた海域で起きる。

だいたい一箇所につき10キロメートル四方程度という非常に小さい領域で生じる現象で、
生じている筒所も世界で数か所にすぎないが、
それが深層の大循環の始まりである。

とくに雨極周辺で作られた冷たくて重い水は、太平洋の一番下を流れる深層流で、
南極周極深層水と呼ばれる。

約3500メートル以深の深海底を、南太平洋から北太平洋に流入している。

北大西洋では、
グリーンランド沖で海水が表層から深層へと潜り込み、北大西洋深層水となる。

北大西洋深層水は、
海底地形に沿って大西洋を南下し、途中で南極海から沈み込んで、
大西洋を北上してきた南極周極深層流と合流し、
インド洋、南太平洋、北太平洋の順に世界中の深海をゆっくりとめぐる。

いくつかの理由によって、途中で表層に湧き上がりながら、
深層を流れる径路が存在する。

これが深層大循環である。熱塩循環とも呼ばれる。

流れの速さは、
1年で10~20キロメートルという、ゆっくりした速度であり、
複雑な経路をたどって地球を一周するのに
1000年単位の時間を要する。
じつに悠久たる流れである。

実際には、枝分かれし、もっと複雑な経路をたどると考えられており、
それ自体が今なお研究の対象だが、
図は、全海洋の表層から深層までを巻き込んで、海流が周回する様子を
概念的に示したもので、

提唱者にちなんでブロッカーのコンベアーベルトと呼ばれている。

まるで血液の循環のようだ。

深層流と表層流からなる「海洋大循環」である。

全海洋をめぐる、このような循環があるおかけで、
熱や酸素などが全海洋に運ばれる。

長い間、深海の水は静止していると思われていたので、
深層流の発見は大きな衝撃だった。

われわれが確証をいだくようになって、まだ30年ほどしかたっていない。

皮肉な方法で確かめられた

少しその発見の歴史をたどってみよう。
1751年、イギリスの奴隷船が西アフリカに向かう途中、
科学者グループに依頼された測定を行ったことから、深層流の発見史が始まる。

大西洋の赤道で、
船乗りたちが長いロープにバケツをつけて深海の水を汲み上げてみると、
意外にも冷たい水だった。
表層の水は30℃近いにもかかわらず、である。

このことを知ったランフォード伯爵
(本名ベンジャミン・トンプソン。政治家であり科学者であった)は、
北極や南極で沈み込んだ水が、
赤道まで流れてくるのではないかという大胆な仮説を立てた。
が、それを実証する方法はなかった。

1873年から行われたチャレンジャー号の海洋観測でも
深海の水温を測り、世県中のどの海域でも深海の水温が低いことが確かめられた。

しかし深海の流れそのものを捉えることはできなかった。

そして1970年代、ついに深層流の証拠が確認された。

それは意外な方法だった。

1950年代から60年代にかけて相次いで行われた核実験の副豪物として、
トリチウム(三重水素)という、自然にはほとんど存在しない放射性元素が、
大気中にばらまかれた。

トリチウムは、水の分子の材料となって海洋に取り込まれ、海洋中に広がっていった。

そこで、世界の海に含まれるトリチウム量を計測してみると、
太平洋やインド洋では
水深数百メートルほどのところにしかトリチウムが存在しないのに、
北大西洋の北部では、
水深4000メートルの深海に広がっていることが、確認されたのである。

このことから、北大西洋北部で海水の沈み込みが起きていることが、ほぼ確実となった。

1980年代、トリチウムの観測に参加したウォーレス・ブロッカー博士らは、
今度は世界の海洋全域にわたって、炭素の放射性同位体C14の調査をした。

この量を調べると、海水が大気との接触を絶ってからどれくらいの時間が経過しているかがわかる。

いわば「海水の年齢」である。

この結果から、地球的規模で深層流の流れる方向が、おおまかにわかってきた。

そしてコンベアーベルトの図を描いた。この図に彼の名前がついているのはそのためである。

グリーンランド沖で、垂直に海水が深海へと沈み込んでいることが、
メキシコ湾流を北に引き寄せる原動力となっているといわれる。

つまり、
深層大循環が、海全休の海水の表層と深層の間を行き来させ、
南北に移動する動きを駆動し、
海水に溶けた物質を循環させているのだ。

深層大循環は海洋全体をダイナミックに動かすベルトコンベアーの一翼を担っているのである。

このことが地球にさまざまな恩恵をもたらす。

人の体にたとえると、
海の表面を流れる表層流を動脈とすれば、
深層大循環は静脈といったところだろう。

血液を送り出す心臓のポンプの働きは、
海水の沈み込み現象がその役割を果たしている。

しかし、このような機構が地球に備わっていることに加えて、さらに驚くのはその役割である。

深層流の発見ののち、その役割の大切さも徐々に明らかになってきた。 

《深海の科学》 瀧澤美奈子 2008年5月初版 ペレ出版 より引用