6 気候の変動

海というマスターキー

海辺に住んだことのある人なら実感があるかもしれないが、
海は気候を穏やかにする働きをしている。

水の比熱(物質1グラムを1度上げるのに必要なエネルギー)が非常に大きいためである。
太陽からの熱をたくさん吸収しても、そのわりに温度上昇が少ないし、
何かの理由でたくさんの熱を失っても、そのわりに温度低下が少ない。
また、蒸発の際は気化熱により、気温を下げる効果もある。

これを拡大して地球全体で考えた場合、
海洋の水の量は莫大だから、莫大な量の熱を貯えたり放出したりする能力がある。
このことを「熱量が大きい」という。
その効果は、全海洋を合わせると全大気の1000倍以上にもなる。

海洋全体では以上のような蓄熱の役目を果たしているが、
個々の現象を見てみると、海洋は気象や気候とも密接に関係している。

そして、起きる現象の時間スケールと海の深さとの間には、
おおよそ次のような関係がある。

日々の天気の変化や季節変動といった短い時間スケールの現象は、
混合層と呼ばれる、
水深Oメートルから、およそ水深400メートルぐらいまでの
浅い部分の海水の温度変化か関係している。

また、エルニーニョ現象のような、
数年から数十年の時間スケールをもつ気候変動では、
水深400~1000メートルぐらいの、
温度積層より上が関係している。

さらに、100年から千年の時間スケールをもつ気候変動、
あるいはそれよりさらに長い時間スケールをもつ氷期-間氷期サイクルといった現象を考える場合には、
それより深い水深が関係してくる。

とくに深層大循環は、
氷期の到来と終焉など、
気候の大規模な変化をコントロールするものとして、
気候の状態形成と深く関わっている。

このようにして見てみると、表層から深海までの海洋は、
気候変動というパズルを解くための、重要なマスターキーのひとつだろうという想像がつく。

もちろん、海の作用だけが気候に関係しているのではなく、
大気と海と陸の間で起こる作用が複雑に絡み合い、気候に影響を与えている。

沈み込みの役目

深海を流れる深層流が作り出す深層大循環は、気候とどのような関わりがあるのだろうか。
深層大循環は海洋全体の循環を駆動している。
したがって、基本的に次のような役目がある。

① 海洋に吸収された太陽の熱エネルギーを、深海を含めた海洋全体に循環させる。

② 大気から吸収して表層水に溶け込んだ二酸化炭素を深海に運ぶという、温室効果ガスを海に貯える機能。

③ 深層流が表層に湧き上がる時、深層水に多く含まれる栄養塩(ケイ素、窒素、リンなど、表層にいる植物プランクトンに欠かせない栄養素)を深海から表層に運び、植物プランクトンが海洋の二酸化炭素を吸収するための条件をととのえる。

④ 表層水に多く含まれる酸素を深海に運び、深海生物に酸素を供給する。

①、②、③からは、
深層大循環が長期的な気候変動をコントロールする重要なファクターである可能性が見てとれる。
そのため、現在、深層大循環のしくみを解明する目的で活発な研究が行われている。

たとえばこんなことが考えられる。

もしもなにかの理由で、表層水の沈み込みがなくなったとしたら、
深層大循環が停滞する。

それでも、太陽から放射される光エネルギーが変わるわけではないから、
太陽からのエネルギーを地球全体に運ぶ効果が少なくなる。
すると、低緯度では今よりも表層水の温度が上昇し、
それにより、低緯度の陸の温度が今よりはるかに上がる。

一方で高緯度では表層の水温が低下し、陸の温度が今よりはるかに下がる。

地球上で、暑くもなく寒くもないちょうどいい気候の地域が減って、世界中が今よりもずっと往みにくくなってしまうだろう。

地球温暖化で深層大循環が弱まる

地球温暖化か進み、深層大循環が止まって、地球が一気に氷河期に突入する。

これは、2004年に日本でも公開されたアメリカのSF映画『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』 (The Day After Tomorrow) のシナリオである。
このシナリオが仮定しているのが、表層水の沈み込みがなくなることだ。

ヨーロッパや北米が高緯度のわりに暖かいのは、
暖流であるメキシコ湾流が高緯度にまで流れ、
海水と共に低緯度の熱を高緯度に運んでいるためである。

そして、そのメキシコ湾流を高緯度に運ぶ重要な原動力のひとつが、
グリーンランド沖の沈み込み現象だ。

海水が高緯度で深海に大量に沈み込むために、
それを補うように表層流が低緯度から次から次へと移動してくる。

深層大循環が始まる場所は、
先に述べたように、
世界中の海で北大西洋と南極まわりの2つの海城だけである。

これらの海域で深層水の生成が抑制されるか、あるいは逆に増強されれば、
世界的な深層流のパターンが変化し、気候変動の要因となることが予想されている。

ちょうど、ベルトコンベアーが折り返すための回転軸のような装置が、北大西洋と南極海に存在すると考えればいい。

このような装置が働いているなかで、地球温暖化が進むとどうなるか。

グリーンランドなど陸上に存在する氷が融けて、大量の淡水が北大西洋高緯度域に流れ込む。
すると、グリーンランド沖の表層水の塩分濃度が下がり、海水が相対的に軽くなる。
すると、海水の沈み込みが抑制される。

そもそも海水の密度が高くなって沈むのは、
海水が重くなる条件、すなわち海水温度が下がったとき、あるいは塩分濃度が上がったときである。

ふつうの海は温度のほうが大きな影響を与える。

しかし、高緯度では、すでに水温が十分低く保たれているため、塩分濃度による影響がむしろ重要である。

北極海では、塩分濃度が高いと海水が沈み込み、塩分濃度が低いと海水は沈み込まずに表層にとどまるのだ。

だから、真水が注ぎ込まれると、沈み込みが抑制される。

するとベルトコンベアーの装置が働かなくなってメキシコ湾流が弱まり、
熱帯から運ばれる熱が減り、
ヨーロッパや北米が寒冷化する。

さきほどの映画は基本的にこのシナリオをモチーフにしている(ただしその後、ヨーロッパや北米が寒冷化するだけでなく、地球全体が凍結するという極端なストーリーに展開していく)。

実際には、全地球がこのように凍結するということは考えにくい。

しかし、過去に地球が温暖化した際に一時的にせよ、高緯度地域が寒冷化した事実が知られている。

最終氷期の末期、間氷期に移行する途中、今からおよそ1万2千年前に起きたとされる
「ヤンガードライアス・イベント」
である。

そして、現在もまた地球温暖化か進行している。

現在は間氷期であるから、
氷期に起きたヤンガードライアス・イベントと同じことが起きると考えるのは早計だ。

2007年に発表されたIPCCの第4次報告書によると、
21世紀中に深層大循環が停止することはなく、弱まる程度であることが予測されている。

また、海は熱の巨大吸収体であり、表層から、じわじわと地球湿暖化の影響が海に及んでいる。

過去40年の観測から、すでに水深3000メートルまでの世界の平均海水温か上昇していることがわかっている。
そして、これまでに気候システムに加えられた熱の80%以上を海が吸収していると見積られている。

これから先、深海に影響が出るまでには時間がかかるため、
21世紀中に大きな変化が起きることはないが、

いったん深層大循環のパターンが変わるようなことが起きると、
地球全体の気候に大きな変化を及ぼす可能性が高い。

長期間の気候変動を考えるうえで、深層大循環の影響がどのように関係するのかはとても興味深い。

《深海の科学》 瀧澤美奈子 2008年5月初版 ペレ出版 より引用